飛び地のまとめ記事。川西と宝塚の狭間で。手書き地図メッチャ。満願寺の写真少し。

cigagraphy 満願寺 川西市 参道

“〒665−0891 兵庫県川西市満願寺町7−1

満願寺町は川西市の飛地であり、周囲は宝塚市である。”

引用:満願寺(川西市)─Wikipedia

ウィキペディアの“飛地”のページを読むと、北摂には、他の行政区画に囲まれたり隔たれたりした、8つの飛び地がある。

他のそれの向こう側にある市町村。北摂だけでなく日本全国の飛び地をウィキペディアのページを目で追っていけば、ひとつのかたまりに収斂しない“場所”の形が珍しくないことを、その数が教えてくれる。

そんな珍しくない“場所”。地元に根づきすぎているがゆえに全国的な認知は低くても、間近にその根を眺めその幹に触れ、陽の光を優しく屈折させるその緑の輝きに毎朝見送られてきた人達は、

その場所、その優しい輝きが今あることの由来、その理由を、柔和な面持ちにほんの少しの影を落とした大切な誰かから聞かされて、誰かからの受け売りの範囲で過去を引きずっているのかもしれない。

千手観音菩薩が豊穣と安寧を与え、高野山真言宗の教えに基づき民を救う、満願寺。その満願寺を大地で支える満願寺町。たとえば満願寺町の成り立ちについて、誰かから誰かに伝えられてきた話を紐解いていけばその紐に、かつての時の痕跡が暗い色をして残っているようで。

満願寺は、旧多田村にある多田神社との結びつきが強かった。ということで、旧多田村は現在の川西市の一部となり、必然的に満願寺町も川西市の一部に。

一方で満願寺を囲む山は、現在宝塚市に属している。そのお寺がある満願寺町の周囲は宝塚市

になった。

満願寺は長尾山という山の中にある。ずーっと昔から60以上の村の民が、その山に立ち入り、肥し草や飼料、薪などを採取していた。1594年の太閤検地の際、そんな長尾山に立ち入る権利の対価としての年貢を、村々に支払わせる定めが生まれる。

ちなみにその60以上の村の範囲は現在の宝塚市・伊丹市・川西市・尼崎市・池田市に及ぶ。

cigagraphy 地図 北摂 大阪 兵庫 宝塚 伊丹 川西 尼崎 池田 手書き

で、その際、村々が年貢を領主に納める、という作業を簡便化するため、村々から年貢を集めて回ってそれを領主に上納する経理役を、どの村にしようか? となった。

当時、切畑村(現・宝塚市切畑)というところは、有名なお寺があり、しかしお寺は山を有さず建物を囲むための最小限の敷地だけを持っていて、ついでに村民はお寺の僧だけ、という状況だったらしい。

なんだかバチカンみたいな、そんな中立っぽさがウケたのだろうか。その切畑村が山親となってその他の村々は山子、という関係ができあがる。

領主に対して最終的に年貢を納める役は切畑村、という図式も含めて簡便化しようとしたのか、長尾山は、長尾山に立ち入る村々、村々の民、みんなのモノ。だけど所有権は切畑村、ということになった。

実質みんなのモノだけど、表向きは切畑村の山で、実際経理も任されているし、山子から年貢を徴収する際、その徴収にかかった事務費用を徴収分から補填することも許されていた切畑村。

役割的にもそうだし、そもそも字のごとく“山親”だから、切畑村が他より、まあ、エラい、そんな感じがずっと、ずっと、ずーっと続いてきた。

最初に表示させた地図。満願寺の北西の一帯だけが長尾山ではない。宝塚市に聳える山々のうち、西から順に長尾山、中山、愛宕山の3ヶ所は長尾連山と呼ばれていて、それ全体の所有権が切畑村にあった。

すぐ上に表示させた地図。左上が長尾山の所有権を手に入れた、当時の切畑村の場所。真ん中より下の赤い印が満願寺町を差している。出発地から目的地までの青い線は11kmほどに伸びているらしい。その青い線の周りにカーソルを合わせて“この地点の情報を見る”と『兵庫県宝塚市切畑長尾山○―○』と出てくる。

長尾連山の所有権を持ったことが由来となって、新宝塚カントリークラブの右上あたりの切畑村は、そこから斜め下のほうまで全部“切畑村”とし、今では、宝塚市を北部と中部と南部の3つに分けると中部は丸ごと宝塚市切畑になるくらいの、結構な比率の広さとなっている。

今回の記事で僕は、当時の切畑村が持っていた長尾連山の3つの山をまとめて“長尾山”と呼んでいる。もちろん満願寺を囲む山の部分のことも“長尾山”と呼んでいる。

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で、そんな切畑村が他より、まあ、エラい、そんな感じがずっと、ずっと、ずーっと続いてきたのに、明治11年。地租改正で、山子が長尾山の一部の永請権──エイウケケン、って読むらしいよ。読みづらっ! エイセイケンでいいのに──を持つ方針が決まる。要するに山子の村々による共同所有である。

山親が長尾山を一括所有という状態が、山親が長尾山を所有、山子もその一部を共同所有。みんなで所有。長尾山は昔と同じみんなのモノ、表向きもみんなのモノ。名実ともにマウンテン・シェア。

あれ? ずーっと俺たち切畑村が、全部やってあげてたのに。あれ……なんか……、って切畑村がなっていたら、さらに明治32年。現在のJR福知山線と舞鶴線、当時の阪鶴鉄道が長尾山に線路を通し、使用料を阪鶴が町村に支払うことになるのだが、その使用料の取り分が少ねえ! と切畑村がついにプッツンして、

「みんなで所有っていうけどなあ! もともと切畑がこの山のことをずーっとやってきてあげたの! 切畑がエラいの! どこの村よりも一番エラいの! だから長尾山は全部切畑村のモノじゃい!」

他の村々を訴える裁判を起こした。このとき、山を所有していた町村は48。1対47で争った訴訟。その結果、47に軍配。

明治38年。48の町村はついに、長尾山を共同管理していこうと組合を作ることになる。このときの切畑村の心境はいかに。もし切畑村が英語圏の人だったら、

「How are you feeling?」と訊いて「FUxxピーーッxn’ SOピーーxxAピーBxxピーーーッCH!!」
って答えるだろうなあ。

cigagraphy 満願寺 川西市

↑ っていうか出すの忘れてた、満願寺の中の写真を。

ちなみにこの飛び地の由来についての記事は、その由来を書いていらっしゃる方のブログやホームページ等をいくつか参照させて頂き、その内容をサクっとまとめたモノで、僕自身で取材したり文献をあさったりは全くしていない。なんせ無益ブログだから。肝心の満願寺の写真出すの忘れていたくらいだし。

で、ただお詳しい人の文章をボケーっと見ていたのだが、この切畑村が起こした裁判を、欲深いと断罪する方もいれば、
(参考:愛宕山(犬)―原典聖書研究)

当然不服として、という言葉を用いることで致し方ないという所見を含めながら事実経過を説明している方もいる。
(参考:NPO法人ニッポン・アクティブ・ライフ・クラブ ナルク(NALC)─宝塚・川西・伊丹・猪名川・豊能─ささえあい(お元気ですか)2014年1月号─米田典夫さんが書かれた『満願寺散歩』のコラムから)※こちらはPDFファイルになります

歴史というひとつの事実から、いろんな意見が生まれるんですねえ。

こんな感じで、お金で対立する道を選んだ末に村八分みたいな状態になった切畑村。

地図を見れば分かるのだが、明治22年の段階で、満願寺は既に飛び地という陸の孤島に身を置かれている。

igagraphy 地図 北摂 大阪 兵庫 宝塚 伊丹 川西 尼崎 池田 手書き

↑ ゲッ! 地図に戻りやがった! しかもまたしても手書きだし!

ちなみに、この手書き地図は、西谷観光協会のホームページ

5_1889年町村再編 | 宝塚西谷観光協会”と、
7_1955宝塚市、西谷村合併 | 宝塚西谷観光協会”を参考にしました。

今の満願寺町にあたる当時の満願寺村が、明治22年、西谷村を隔てて向こう側にある多田村の一部として構成されたらしい。ちなみに満願寺と結びつきの強い多田院(現・多田神社)が立つ多田院村は、後に多田村のとなる地域のひと塊の中にある。

同じく明治22年、かつては長尾山を山親として管理していた切畑村は西谷村の一部になる。西谷村となった切畑村が管理していた長尾山なのだから、ストレートにいけば、その長尾山に立っている満願寺も西谷村のお寺になったのかもしれないが、

信仰的にも経済的にも満願寺と多田院には強い結びつきがある。しかも明治22年は、切畑村が長尾山を共同所有する48町村のひとつでしかなくなることが決まっていて、そのことで切畑村がピクピクきていた頃。面倒臭えから満願寺は多田村にしとくべ、ということだったのだろう。

そのまま時は流れ、昭和29年、多田村は飛び地を抱えたまま、川西町と東谷村と合併して、今の川西市となった

今の宝塚市ができあがったのが昭和30年だから、既に満願寺町が川西市となっている状態の、満願寺町を囲んでいる部分の長尾山は、真ん中がすっぽり抜けた状態で宝塚市に編入となったのだ。

明治22年の段階で、色々あった長尾山と満願寺を一緒の行政区画に混ぜるという選択肢はなかったのだろうし、その後、鉄道の話でもめる。ますます、一緒はない。

それらがあってさらに65年を経た昭和29年。65年も経てばその、一緒はない、という状態がずっと続いてきて、今更あのときの騒動を検証して精算して飛び地を解消して、というという必然性は、そりゃあなかっただろう。

cigagraphy 満願寺 川西市 参道

“境内全体が兵庫県宝塚市に囲まれた飛び地になっている同県川西市の満願寺。寺田等慧(とうえ)住職(80)はそれ以上、あまり多くを語ろうとはしなかった。”

引用:【関西の議論】家を買ったら「住所」違った…「飛び地」の宝庫・関西、日本最大から空港の中まで、動かしがたい“存在感”─産経ニュース

※80歳という年齢は、この新聞記事が書かれた当時のものです。

と書かれた記事でインタビューを受けている、多くを語ろうとはしなかった住職は、満願寺のホームページで、

“なぜ飛び地ができたか? そのいきさつは? というのが、よくきかれる質問で何度かメディアによる取材も受けた。いまや、浮世を離れた身の和尚としては、飛び地などドーデモ良い問題というのが正直な気持ちなのだが(後略)”

引用:『飛び地』─住職のお話(6)─満願寺

“どうでも”ではなく“ドーデモ”って書いていらっしゃる。“ドーデモ”と書くことで、住職の中でのどうでも良さを強調していらっしゃるのだろう。

無益なブログなので、もちろんどなたにも取材などはしていないので、住職のお気持ちは僕の解釈でしかないが、その強調から、住職が色々とご存知なのだろう……色々と……、というのが伝わってくる、気がする。

cigagraphy 満願寺 川西市 紅葉

歴史や道程が重なって、今がある。でも、それが今であったとしても、今を生きる我々にとってはそれこそドーデモ良い重なりであることが、少なくはない。

大切な重なりも、不毛な重なりも、しかし人間はその重なりを遺伝子のように、これから重ねていく時間に残していこうとしたりする。

そして、沁み込むように受け継いだ重なりが、ときに人間の先入観と姿を変え、限りなく無に近い微細な汚れにも、人間は過敏に五感を歪めたりする。

しかしその重なりの隙間に溜まった汚れを指ですくって確かめて、一つひとつの折り目の谷を布で拭っていく手間をかけるには、65年という月日は、経ち過ぎていたのだろう……。そして急に比喩表現を使いたくなった僕であった……。そしてサラリと満願寺の写真の間隔を早めてる。

cigagraphy 満願寺 川西市 紅葉 

↑ メッチャ早めてる。

ここまで、川西市の飛び地について長々と書いてきた。なぜ、この吸い殻みたいに無益なブログに、こんなにも、あたかも有益っぽい歴史をかじったような文章をつらっつらと書いてきたというと、

本当は飛び地のことではなく、その満願寺の紅葉が綺麗だったよ〜ということを撮ってきた写真とともに言いたかったのだが、その満願寺が飛び地にあるということを知って、それについて調べていたらなんだか飛び地になった理由のほうが面白くなってしまい、

でもネットで調べていると行き着いた複数の記事には飛び地の変遷が断片的にしか書かれていなかったので、僕なりにその断片をまとめてみた。

さっきも言ったけど、当事者としての経験を書いた記事を拾ってきた二次情報だけを頼りにまとめた今回の文章なので、本気で川西市の飛び地のことを知りたければ、ご自身で調べて頂きたい。なんせこのブログは無益ですから。

もしこの他にも飛び地はたくさんあるので、その由来と歴史を知りたい方はこちらをお読みになってもいいのではないか。

兵庫「地理・地名・地図」の謎 (実業之日本社 じっぴコンパクト新書) ─ 著・造事務所、監修・先崎 仁

知らなかった!「県境」「境界線」92の不思議(実業之日本社)─ 浅井建爾

ということで次回は、綺麗な満願寺の写真を、もう紅葉なんて終わりだろ?! という師走真っ盛りの時期にアップしていく。
今回載せたのはほんの一部なので、このブログ“ cigagraphy “の

満願寺(川西市)の写真と動画とアプリ。

の記事に、もっと載せます。

その他の参考文献……
長尾山入会─apedia Web版尼崎地域史辞典

山本丸橋地車平成21年度秋曳行─ぶらり紀行

日本の旅 関西を歩く 兵庫県川西市の飛地にある満願寺(まんがんじ)周辺─4travel.jp

 

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