【前回のあらすじ】
【大分むぎ焼酎 二階堂のCMへの憧れを僕の暮らす街から意外と近い場所で体現してくれていた、そんなトンネルと出会った筆者。
JR京都線の茨木─摂津富田の間にかかる門ノ前橋梁と茨木川橋梁にかかる線路が“現在”を往復している車両を載せているとすれば、高架下の向こう側に広がる白い光は、何かを知るという経験が楽しいことでしかなかった“あの日”から漏れる眩しさであり、ふたつの橋梁という構造物を隔てて現在と過去の光は交差していた。
幼いころに肉親を次々と亡くし、のちに『骨拾ひ』『伊豆の踊子・花のワルツ (他)十六歳の日記・十七歳 (旺文社文庫 A4)
』で描くことになる孤独のどん底の崖の縁をなめるように過ごした川端康成は、このトンネルの近所──には住んでいなかったものの、同じ茨木市で、やがて世界に評価される文学へと昇華する感受性を身につけていった。
文豪を育てたかつての日常は、現代のノスタルジーに、外面を変えずとも変幻し、その象徴ともいえる門ノ前橋梁のトンネルは、僕達みんなの“あの日”、そして稲荷大明神と伏見屋本店に向かって優しく微笑みを絶やさない──。】
前回記事
門ノ前橋梁と茨木川橋梁とノスタルジー。川端康成も眺めた(?)あの日に続く場所。

このトンネルとの接点を見出すのに相当な歳月と費やしてしまったことを、僕は未だに後悔している。JR京都線を頻繁に利用する僕なので、ということは茨木川橋梁と門ノ前橋梁の上を知らず知らずのうちに、”現在”に沿って揺られながら過ぎ去っていた僕である。
現在に疲れたのなら、たまには過去にすがりついてもいいじゃないか。そのトンネルに教わるまでの歳月、いくつの無駄なため息を、前を向きながら、未来へ向かいながら、こぼしていたことだろう。
無知の涙をこぼす僕に、トンネルはそれでも僕の”あの日”を祝福してくれていた。接点がなければ今から接点を作ればいいと言わんばかりに、トンネルの向こう側に広がったのは、セピア色の憧憬であった。田舎暮らしをしてきたわけでもない僕に、僕自身の胸の中で積み重なっていた過去という名の憧憬は、トンネルの向こうの光をスクリーンに、プロジェクションマッピングとして上映されていた。
無知の涙は僕の心の温もりを忠実に再現した感涙に変わり、滲んだ視界を拭って、この喜びをご祭神へと感謝するため稲荷大明神に足を踏み入れた。

足を踏み入れるといても、スロープを数歩と登ると勝手に体は鳥居をくぐり、足を一歩押し出せばそこは祠の前であり、大明神の敷地の果てである。
Google マップで“稲荷大明神”と検索をかけることもなく、茨木市内の地図を拡大していけば伏見屋とともに表記されている場所なので、我々がぱっと頭に映像化させる神社があるのかな、と思いきや、である。
これはあるあるなのだが、道ばたに鳥居と祠とだけがある、道祖神を祀る神聖な場所の鈴は、鈴とともに結びつけられている細長い布に、鈴とぶつかり音を響かせる木片が付属していないか、付属していても布の可動域が狭いがゆえに、ご祭神をお呼びするほどの音が鳴らない。

暖簾に腕押しとはこういう感触をいうのか、というくらい、布に込めた力が鈴に伝わらない。まあだけどとりあえず、ご祭神にはお気づき頂けていると信じて二礼二拍手一礼をして、過去にすがって生きていくことを自らに許せた、自分自身への解放と幸福を感謝した。
ちなみに僕は祠の内部までを撮影するのはいくらなんでも無礼であろうと、撮ることはしなかったが、実際に祠の内部を撮影された方のブログを読むと、どうやら“あの日”へのトンネル一帯を見守ってくださっているご祭神は、お地蔵さんらしい。
稲荷大明神について記した他の方々のブログ等を拝読しても、祀られているのはお地蔵さんということらしい。神社のご祭神は皇族の方や朝廷に仕えた重役の御霊であることが多いが、お地蔵さんである。
しかしお地蔵さんであっても、仏の道を志した方はこの世に生きていても仏様でいらっしゃるというのが仏教の考えであるから、修行僧の化身である名も無きお地蔵さんであってもこの一帯を、そしてこの一帯からみんなの“あの日”に続くトンネルを見守ってくださっているのならば、偉大な方なのである。
「なぜ稲荷大明神の祠の中にお地蔵さんなのだね?」と首をかしげる方もいらっしゃるだろうが、祠の内部がお地蔵さんというケースも、神社っぽくない祠と鳥居セットの場所では、あるあるである。

“ 無宗教こそ日本人の宗教である (角川oneテーマ21) ”を読んで頂ければ詳しく分かるかもしれないが、
仏教も神道も多神教なので、日本人にとっては馴染みやすい考え方なのである。昔の日本人は先祖を供養し五穀豊穣を願うために、神様も仏様もお地蔵様も崇めた。下界の人間を見守ってくださる存在はお一人ではない、それどころか八百万といらっしゃる──。
日本人は遥かはるか昔からそんな考えをDNAと同じレベルで受け継いできたから、バレンタインもお盆もハロウィンもクリスマスも初詣も、全部やってしまえるのである。
もともと日本人が群れたがるのは、農耕民族だからである。みんなで地を耕してみんなで豊作を祈ってきた。ひとつのことをみんなでやってきた。だから、それぞれの行事の起源や宗教性を考える以前に、行事やイベントをきっかけにみんなで集まれることを美徳と考えるのは日本人の習性なのだ。
「若いヤツらは理由も知らずに行事の名前だけ連呼して群がってなにも考えずに渋谷の街を闊歩するんだ……」と斜に構えたオトナがおっしゃるが、日本人の習性っていうのはそういうことなのだから、その説を唱えて嘆くだけ不毛なことなのである。
そういう訳知り顔な斜めからの言葉を、わりかしヴィジュアルぶったキリスト信者ぶった若作りの純日本人アーティストが言っていたりするから、筆者はその気取った態度に嘔吐するのである。
過去との再開を感謝する気持ちの独白からいつの間にか芸能人へのやっかみの角へと文章が曲がってしまったので再び“あの日”に伸びる大通りに戻ることにする。

“あの日”への入口を真正面に見つめる稲荷大明神、そして伏見屋本店である。
前回の記事にもちらっと書いたが、茨木市駅西口から府道15号線を北へ、国道171号線を目指している途中、田中町の交差点を左に曲がると伏見屋本店がある。左に曲がった通りの左手に正面の店頭がある。
藍色の暖簾と白熱色の灯り。モダンな趣も懐かしさも備えている外観を眺めただけでもう、スーパーで売られているものとは違うんだろうな、そんなお豆腐を食べさせてくれるのだろうな、という贅沢な誘惑に体躯が吸い寄せられていく。
実は売り場はここだけではない。伏見屋本店の裏手、田中町自治会館前の交差点を左に曲がると、稲荷大明神の横に伏見屋の工場がある。その工場の直売店が、
ストリートビュー中央の信号機を越えた細い道の向こうに、

“あの日”に続くトンネルを真正面に見た場所に、ひっそりとあるのだ。
トンネルとの出会いに感動していた僕は、この出会いの日をいつまでも記憶に残し、そしてデータにも刻むべく写真をひたすら撮り続けていた。トンネルの向こうから漏れる “あの日”の光の様子を僕が撮る、それは同時に工場の直売店の店員のおばさまからすれば、怪しい男がずーっとうろついていることになる。
僕は身長185センチ、細身に黒い服をまとっているから、外見が逃走中の犯人のそれである。怪しまれてはいけないと思い、直売店の店員のおばさまに、
「すみません、トンネルを撮りたいので、しばらくこの辺ウロウロしてて良いですか?」と聞くと、
「ええ、全然。どうぞどうぞ」とおばさまは重ねた年輪に比例した柔らかい笑顔で頷いてくれた。
お言葉に甘えてトンネルをひとしきり撮り続け、満足した後に直売店のおばさまから“生とうふ”と“とろ湯葉”を受け取った。

先ほどの名も無き偉大なお地蔵さんの祠がある稲荷大明神の鳥居のすぐ横の段差を登ると公園がある。公園のベンチに座り、自分自身に何の目的も課さない数十分を過ごす。大人になってからそんなこと、したことがあっただろうか。
いや、子どものころにもそんなことはしなかった。あのころの僕は遊具を使い、電灯の柱も利用して、足の軌跡をたどればペイズリーを描けるほど幾何学的に動き回っていた。となると、これから過ごす時間とは僕の人生で稀な経験ということか。ベンチで風に撫でられながら、揺れる木々のさえずりとトラックの振動音との不可思議な調和を聴く。それだけでも楽しいと思えるのは、子どものころではできなかったことだろうか。
外見が犯罪者になり、親子連れの白い目が気になって公園へ足を運びづらくなったこともあって、ちょうど人の気配がなかったその日その時間帯の公園、“あの日”の象徴となる場所で、“あの日”とは異なる、ぼけえっと流れる時と一緒に揺れる今、僕はまさに、過去ではない、今を生きていた。

落ち葉が無造作に装飾された木のベンチに、薄紅色のロゴがおしとやかなキュートさを生とうふととろ湯葉に与える。豆腐にとっての最終かつ最大の目的である食される喜びが、フィルムをめくるとともにパックの水の踊り溢れそうになる様からも伝わり、めくり終えると僕の親指のつけ根に数滴のささやかな雫が飛びついている。
濃く白いキャンバスのような表面は張り詰めずに寛大な心意気で筆を落とす僕を待ってくれているようだ。なにも描かれていない白に、どの位置からでもどの太さからでも陰影を刻んでいこうが僕の自由で、まだその自由を手放しで許されていた“あの日”の僕が、ゆったりとした時間の流れに僕を運ぶベンチで、その白に箸という筆を入れる。
陰影を刻んでいくようにキャンバスを崩し、二本の木の枝に自由のかけらを載せた僕は、まだベンチを支える地面に届かない短い足をぶらぶらさせながら、切っていない林檎を丸かじりすることにも一苦労な小さい口に、自由と過去への入口に、豆腐を収めた──。
生とうふととろ湯葉は“あの日”の僕には人生で一番のご馳走を平らげたような、破裂する予感さえ覚える満腹感を与えてくれた。もちろん悪い意味ではない。胃袋にあるものは全てが幸福である。
その幸福をお腹でひきずりながら、その公園の縁の部分、公園の縁が坂状になっていて、そのふもとに稲荷大明神があるとするならば、その坂の頂上は、門ノ前橋梁に支えられた、”現在”を行き交うJR京都線の線路と同じ高さにある。“あの日”の僕は実質“あの日”の上に立っている。“あの日”の僕は、遥か遠い未来を見つめている。

まだ短い脚と幼い心肺機能には、大して長くもない勾配もない坂でも一苦労に感じるが、伏見屋の工場も直売店も、トンネルも稲荷大明神も、この日の僕の時間をすべてかたどった場所をここから望むことができる。
“あの日”の僕の手を母の手が引いて、母の反対側の手に僕より小さい妹の手を結び、電車というもの、猛スピードで走り抜けていく大きな塊、その存在だけに大はしゃぎしていた“あの日”の僕。数駅向こうを訪れるだけでも大冒険に思えてならないけど、きっとあの電車は、僕のまったく知らない、僕が一生をかけてもたずねる機会を得られないような、そんなところへと人を連れて行くのだろう。
万が一、僕がなにかのきっかけで、数駅どころでない、もっともっと遥か遠い田舎の誰もいないような、もしくは僕の小さいからだを渦のように飲み込んでいくような大都会の街へと電車で運ばれていくことになったら、きっとそれは僕が大人になったときだろうなあ。
僕のすぐ隣で、今を生きる人たち、僕より遥か先の未来の場所で今を生きている人たちが、一つひとつ間隔の置いた窓からこぼれる光を連ねながら、そのくらいのスピードの電車の中から、僕の目の前を、遥か未来に向かって過ぎ去っていく。
“あの日”の僕に、未来の光は、トンネルの向こうの光よりも眩しく見えた──。
前回記事
門ノ前橋梁と茨木川橋梁とノスタルジー。川端康成も眺めた(?)あの日に続く場所。
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